昭和41年03月14日 朝の御理解
愚痴は言うまい。不足は言うまいと。不足にも思うまいと云う様に、次の私達のコーナーは愚痴、不足を言わんと言う様な事に焦点を、それは取りも直さず自分の心の影だから、自分の心のせいだからというのが、金光教の信心に限らずあらゆる宗教と名のつく、信心でそれを申します。愚痴を言わにゃ、不足を言わにゃと云う様な教えはありません。愚痴を言うてはならん。不足を思うてはならん。
皆んな自分の心のせいだから。自分のつくった、言うなら道では罪と言った様な事は申しませんけれども、一つの罪の償いだからと云う様な風に申します。ですから皆さんも愚痴を言うたり、不足を思うたりする様な事もありましょうけれども、そこんところを抑えたり又は、思い直したりして、思い替えをしながら、信心を進めておられると思いますが、お道の信心はねそれだけではない。
愚痴を言わなければならん。不足を思わなければならないと、云う様な事柄が、自分の作ってきためぐりのせいだと、云う様な頂き方から、もう一歩前進して、言わば愚痴不足を言わなければならないと云う様な、一つの難儀、困ったこと、自分の思う様にならない様な事、そう云う様な事柄を、そのまま神愛と受ける。難はみかげと仰る。難はむしろ喜びで受ける。それが、お道の信心のいき方だと思うのです。
これも自分の心のせいだから。自分の作って来ためぐりだからと、そこを、それを甘んじて受けて行くというのではなくて、甘んじてと云う所を元気な心で受けて行く。喜びで受けて行く。難をみかげとして受けていく。そこに私は、問題なら問題、難儀なら難儀というたんびに神様の思いを、いよいよ深く分らせて頂くと云う事と同時に、完全に力を受けて行く。そのたんびに、お徳を受けて行くのである。違うでしょうが。
ですから勿論、不平不足を言うておられん事は、勿論の事。不平不足どころかお礼を申し上げねばならん。そこに、金光教の信心は消極的のようであって、非常に積極的ですね。ああ愚痴を言うちゃいかん。不足を言うちゃならん。いや、おかげにならん。よくよく考えてみると自分の心のせいだから、これも自分で作ってきた罪のせいだから、とその事をそう言う風に、頂くと云う事は、ただ、その問題を、そこを甘んじて受けていくというだけでしょう。
言うなら、仏教的に言うと、そこんにきを諦め、一切をもう因縁、因縁ですね。因果応報と言った様な事で片付けておる訳です。ですからこの世は仕方ないとか、あの世に救いを求めてと言った様な事にまでなる。不足難儀でもです。そういう人間だから、例えば難儀な事が起って来ても、因果応報だから仕方がない。として、それを受けていくという、消極的なものではない。むしろ元気で受けて行く。それを乗り越えて受けて行く。難をみかげにして行く。
今も四神様なんかは、難はみかげとはっきり断言しておられる。其処ん所を私は、この世の中に難というものは、実はないのだ。あるものはもう、神愛だけだ。教祖の神様でも、二代金光様でも其処ん所を、そう言う風に表現しておられます。私は其処ん所をいわゆる私共の前に難儀というものはない。難儀とみえておるものはみんな迷いだ。それを私はめぐりのせいとか、なんとか言った様な風には、申しませんでしょ。
それを神愛のあらわれ。それによっていよいよ氏子幸せにせずにはおかんという、天地の親神様の働きがある。ですから、勿論、今日、私が言うておる事を、皆さんが、愚痴を言うたり、不足を思うたりしておる様な毎日であったら、もう、実を言うたら、私の御理解を頂く値打ちはないです。そうでしょうがね。それより仏教を信心するがよか。そして一遍、やり直すがよか。
そしてから、先ず、諦めできる位の信心がでけて、その諦めだけでは食いたらん。諦めでは、どうでも合点いかんことがある。そんなもんじゃない。天地の親神様は、切に切にもう止まれん。氏子幸せにせねばおかぬという働きがある。今まだめぐりと思うたり因縁と思うとったのは、めぐりでもなからなければ、因縁でもない。私は本当にいうたら、そう言う風に思うんです。 めぐりというのは、一つの方便にすぎない。因縁というのもそうだ。そんなもんじゃない。もう神愛だ。
そこから、そういう思い方から、いよいよ不動の信念。この世の私共のぜんてい、行く手には、難儀なことやら、困ったことがある筈がない。この様にみえるのは、ただ、私共の信心が薄いから、それが迷いの眼をもって見るから、心眼をもって見ずに、肉眼をもって見るから、難儀の事のように見えておるのだけのものである。として、行くのが、私はお道の信心だと思う。
昨夜のご祈念に、田主丸のむつやさんが、番頭さん達夫婦を連れてお参りになった。十三日会の、おかげを頂けなかったからというて、あそこの場合、不思議に十三日の日に限って、大変、お店が繁盛するですね。店が。ですから十三日会の内容であるところの、神様の願いに応えると言った様な日として、十三日はもう、つういっぱい、むつやの店が繁盛のおかげを頂いて。
それが十三日会の会費になったり、御造営費になったりしておられるわけです。そう云う訳で、出席しておられなくても十三日会の精神だけは、もう店をあげて、それを体していかれておるという感じが致します。夕べも参ってみえてから、ご承知でしょうか、あそこの小さい時分からおりますモリちゃんという番頭さんが、一番古い番頭さんがおります。最近、奥さんを貰っておりますが、奥さん達をつんのうてから、時々参って来る位の事で、信心気はありません。
けれども奥さんが妊娠のおかげを頂いたり、自分が腎臓で入院しなければならない、という診断がおりた。非常にだから、最近はしょうすいしておりますですね。それで又、改めて、とにかく椛目にしっかり参んなさいと、店の方からみんな言われて、奥さん始め、お参りして来ておって、少し楽になったから、病院に行ったところが、これなら入院せんで良かろう。家で養生すれば良かろうと云うところで、おかげ頂いておった。それきり又、参って来なくなった。
それで又、あただに心配になってから、その病院通いをする様になったら、今度、前よりもひどくなっておる。もう、いよいよ又、椛目にお願にいかじゃこて、と自分も思うておった。お店の方達も、奥さん始め心配しよる。あの人がおらんにや困る。の人がながくおりますもんですから。ところがです。昨日、モリちゃんが、あそこの田代さんに言われる事だそうです。
奥さま、大変なもう不思議な事があってから、もう気持ちの悪かなごと、不思議な事があったちいう訳です。どう云う事かちいうたらですね。先日、誰にも話さんなおったばつてん。お夢の中に清子奥さんが出て来なさったち。石井さんです。もう、それがあんまり生々しゅう、その、なんじゃけん、気持ちが悪かったち。そげん言うそうです。そして「モリちゃん。あんたこの頃腎臓が悪いというじゃないの。しっかり信心せにやいかんよち、今度のことだけはあたしが椛目に行って、お届けしとくけん。おかげ頂かんの」と言うて消えられた。
もうそれが、夢の中でまざまざその見たもんじゃから、二、三日黙っとったけど気持ちが悪くなって、今日その事を田代さんに、話されたそうです。それだけではなくて、その翌日病院に行ったら、全然腎臓気がなかったち。昨日、夫婦でその事のお礼に出て参りました。ここに至ってから霊の世界というものも否定する訳には行かないでしょうが。皆さんも、ご承知の様に、本当に椛目でも女、男を合わせてから、この人の右に出るもんはおるまいという、熱心な信心振りだけには。というて皆申しておりました位に。
熱心な信心を致しましたけれども、矢張り私共から言うと早死にだった。もう、あの当時、皆さんは言うとりました。もうむつやもこれで終わりだと言うておりました、田代さんがおられるけれども、商売にかけては、この人の右に出る者はおらじやった。もうむつやもあれでしまえたと、言う評判、信心しておる者でもそう言いよりました。所がどうですか、益々繁盛するのおかげを頂いておるでしょうが。もう何かと言う時には、必ず霊の働きがあるんですよ。あそこは。子供達もだから、神様にお願するよりか、お母さんの霊にお願する方が早かというとるです。
あの人が亡くなりました時に、霊のおくり名を頂く時に、私は御心眼に頂きましたのが、色の白い、色の白いお不動様なんて、まだ、聞いた事も見た事もないけれども、もう、実に大変色の白い方でしたもんね。雪の肌のように白かったでしょうか、雪の肌のよう白いお不動様なんですよ。そのお不動様の図を頂いたんですよ。女のお不動様でした。ですから、霊様のおくり名にも、不動という名が入っております。くり名の中に。確かに、そのいわゆる不動の信念を段々身に漬けて行かれた方でしたですね。
もう本当に、もう、ようこんな状態で椛目に出て来られると云う程して出て来よりましたですからね。亡くなられる際まで。本当に今にして思うてみても、驚きでしたですね。床の中で動きも出来よらん時でも、夜、ご祈念の時間になってくると身体が動くちいうです。その一念ですよね。神様から不動というおくり名まで頂かれる位、信念の強い人でした。いわゆる私は、ただ、その難をめぐりのせいだとか、不平不足を言わなければならない様な事が、自分の心のせいだから。
心の影だからと言った様な程度のものではなくてです。そのあります。私共の行く手には、様々な困った事。難儀な子とがありますけれどもです。よくよくその事を信心で分らせて頂きますと難儀ではなくて、それは、おかげであると云う事。神様氏子を幸せにせねばおかぬ力を与えねばおかぬという働きだ。神愛のあらわれだと云う事。と云う様にです。例えばそれを神愛の現れとしてそれを頂くとき、しかも元気な心で頂く時に、そういう一つの問題なら問題、難儀なら難儀のたんびに、力を受けて行く事が出来るけれども、果たしてお互い、そのたんびに、おかげは頂いているけれどもです。
それを力にして行きよるという、惟になんか知らん、おいしかもんを食べた時に身に付いた事あるというでしょうが。その難儀のたんびに何か身に力が付いて行きよるごとある実感があるか、否かと云う事ですよ。はあぁ今度の事で一徳受けた。今度の事で力を私が受けた。私はもし力を受けたというなら、あの世にいける時に、私は力を受けたとじやろうと云う様な実感が、果して皆さんの信心の中にでけて行きよるかどうか。人間じゃない。信心させて頂く者の幸せ、そこにあると思うんです。
どの様な事が起って来ても、これから先どの様な事が起って来ても、驚いてはならんぞと仰る。驚かんですむあわてんですむ。はあぁそれはおかげだと。例えばさあ困った。どうしょうかと云う時でもです。おかげおかげぞ、おかげがという、言えるだけの信心を私は頂いて行かなければ、お道の信心の値打ちがない。これもまあ、因縁、こう云う事にあうのも因縁だと。もう自分で作ったもんだから、めぐりのせいだから。
これも自分の心のせいだから、仕方がない。という計算的な言わば、ただそこんところをおかげにして、どうやら、こうやら通り越えるというだけではなくて、通り難い事あればある程に。それをいよいよ力を受けて行く所の材料に、問題を問題にするんだけではなくて、問題をいよいよ力に徳にして行くという信心。そういう体制、そういう腰構えというのが、お道の信心では必要だと。もう即御かげとして頂ける信心、実を言うたら難はないのだ、神様が氏子を幸せにせねばおかぬ。
私、これはもう十何年前の時に、ははあめぐりというのは、ある意味合いでは方便だと言うた様な事を感じた事があるのです、と言うのは。ある難儀な人のお取り次をさせて頂いた。そしたらご心眼に大きな蛇を頂くんですよね。蛇のお知らせはめぐりというでしょうが。この人はめぐりの強い人だなあと。こういう難儀にあうのも、やっぱりめぐりのせいだと。私は思うて神様にお願させて頂きよったらその蛇がですね。その大きな蛇がそのまま強い盆綱ちゅういうですかね。
盆綱引きをするあの、麻かなにかで編んだ大きな綱があるでしょうが。蛇がそのまま縄の姿になった所を、御心眼に受けた事があって以来、私はそれを自分の心の中に思うとります。はぁ。めぐりの様に見えておるのは、こういう力の強い綱にする為のものであると云う事ですよ。ですから、場合によっては今の様な御理解はそれは、めぐりの所為だから頑張りなさいと言わんやん時も、あるから今の様な御理解は、実をいうたらお釈迦様の言葉でいうなら嘘も方便という。
その方便を使わなければならん時もあるけれども、本当いうたら、めぐりはないのだと私は思うんです。もう、本当にめぐりの恐ろしさに驚きますと、言った様な事を、私も言えば又。実は思いもするんですけど、よくよく考えてです。そういう難儀な事になかなければ、その次には、めぐりが大きければ大きいだけ、おかげも大きいと仰っておられるでしょうが。その証拠に、これは私が頂いた御教えです。めぐりが大きければ大きいだけ、おかげも大きい。
めぐりが大きければ大きいだけ、大きい徳と力が受けられるという。もう、これはもう証拠なんです。いうならば、私共も、人並み以上のめぐりが、深かったから、人並み以上の苦労させて貰った。おかげで、それだけの、人並み以上のいうなら、力を受けて行く事が出来るんだと、自分で思うておる。してみると、めぐりはない。めぐりの様に見えておるのは、お前に、力を与えたいばっかりの神愛。神の思いのあらわれであると云う事が、分るでしょう。
と言う様にです、私共は、ことごとに、それを自分のものにして行く所の信心させて頂いて、もう不平不足だん、勿体のうしてからもう言われん。言われる筈がなか。ほんなこついうたら。同時に又、不平不足ども言いよったっちゃ、おかげにならん。ですから、不平不足を言うちゃならん、という理を分らせて頂くと同時にです。それを元気に受けて力にして行くだけの信心。
そしてです。どの様な事が起って来ても驚かんで済むだけの、言わば、安心のおかげを頂かせて貰うと同時にです。せめて霊様にならせて頂いたら、自分の関係の程度ぐらいは、清子さんの、もりちゃんに対してのお働きじゃないですけど、子供達が云う様に、お神様にお願をする、より霊様にお願したほうが早かと、言う位な力を頂かせて貰う事を楽しみに、お互い信心をしなければいけないと思うんですね。
どうぞ。